記憶

ゼロではない

1997年の冬の話だ。

私はいろいろと悩んでいた。主として自分の進路というか、就職のことであったり人生設計についてのことだ。

悩みというものは人を成長させるが、一方で危険もはらんでいる。悩みには真正面から立ち向かわない方がいいことも多いのだ。なぜなら、悩みというのものは自分一人の力ではどうにもできない外の世界が関係していることが多く、結局のところ完全解決しないこともある。その中で、自分の意識で変えられることは自分の振る舞いだけだからなのだが、そこで堂々巡りになることもある。

悩みながら、私は日常の生活に忙殺されていた。生活は厳しいものだったと思う。それをみんなしのいでいたが、今考えればあれは若さゆえのものである。

あるとき、私は人に助言をいただいた。「結局のところ、何かをやっているうちはゼロではない」と思えということだ。

私たちは立ち止まってしまうこともある。人の心は、常に勇敢であるわけではない。一時の瞬発力を出せることもあれば、綿々と続く仕事を計画的に行なわねばならないこともあり、後者の場合は特に、疲労で挫折することもあるのだ。

そのときに、止まってしまわないことも大切だというメッセージだったと思う。いや、止まっているように本人が思えるかもしれないけど、本当はそうではない。完全なゼロではないのだと。

私は今でもそれを思いだす。とりあえず一日一つ、大したことではなくても何かをやろうと。そうすれば、決してその日は無駄ではない。ゼロではないからだ。

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ファーマコメトリクス

2011年の冬の話だ。

私はあるシンポジウムに参加していた。韓国のアカデミアが、謙譲の美徳を持って言った。

「日本は韓国よりも長い、母集団解析の歴史を持っている。それに、韓国よりもたくさんの人がPharmacometricsに従事しているよね? 私たちはまだとても少ないんだ。Clinical Pharmacologistと呼べるような人は稀な存在だし、そもそも薬理学者からは科学ではないと呼ばれたりもしていたんだよ。DMPK研究者は実験科学者たちであって、臨床家と協同することだってなかなかない。なぜ、日本ではPharmacometricsの価値とか、そういうものが、いまだ議論の俎上にあるんだい? そして、この会場にはたくさんのPharmacometricianがいるみたいじゃないか。教育機関もないなかで、彼らはどうやって生まれてくるんだい?」

これは一部謙遜である。韓国からは欧米に留学してそのままPharmacometricsの世界で活躍している人たちがたくさんいる。Domesticな環境と、その国からでてきた人たちのことを同じ扱いにするというのは難しい。

そこに対する日本の答えだ。

「自然に育つんだよ」

これは面白い。笑わずにはいられなかった。ユーモアのある答えだった。確かに、私たちは自然に生まれてきたのである。日本という国は、このくらいの人数については、自然発生的に生み出すことが可能なのだ。

これが可能であるということは一種の国力である。日本を悲観してはいけない。

しかしこれでは国際競争力を保つことはできない。

世界は苛烈な競争の中にあるのだが、それを意識することは日本人全体にとっては難しい。製薬企業は一種の保護産業でもあったため、いまだに規制当局と自社という2つの存在しかない世界で議論をする人たちが多い。

つまり、「私たちにPMDAはこのような要求を全くしないではないか。PMDAはわかってくれている。私たちの会社に理解を示してくれているはずだ。私たちは議論を重ねてきた。ちゃんと臨床計画を認めてもらってきたし、臨床試験成績もいろいろと突っ込みどころはあるかもしれないが、まぁいいのではないか。だから承認されるのだ」という世界だろう。

ここには、医薬品の性能を最大限引き出すとか、それを努力する他の企業が存在するという視線はない。「一刻も早く承認を取得する」という文脈においてのみ、他社との競争が存在する。これを、「一刻も早く、適切な用量を設定して承認を取得する」に引き上げる必要があり、これは多くのWithdrawalを経験している医薬の世界では患者目線とも、公共の利益ともあうはずのことのはずだ。これは公共の福祉のマスに対する競争力を上昇させようという提案である。これを企業内で受け入れられるようにしないといけない。

名言が多かった。

「Pharmacometricsの信頼性の議論について注意すべきことがある。方法論としての信頼性と、個々の事例の信頼性の問題を一緒くたにしてはいけないということだ。個別の事例においては、データの持つ情報量の不足から、信頼性に乏しい、あるいは予測性に乏しい結果が得られることがある。しかしそれはPharmacometrics自体が信頼性に乏しいわけではない。方法論自体のバリデートは欧米においてとられつつある現在、日本で適用できない理由はない」

最も端的に、PharmacometricsのCredibilityについてなされた発言だろう。

我々が、後進であることには疑いはない。この日本における議論の現状について、米国から来た人はどう思っただろうか。米国であってもPharmacometricsは単純に信じられてきたわけではない。そこには理解と合意を得るための長い道のりがあった。

80年代から現在にいたるまで、Pharmacometricsの確立のためには薬学の人間だけではなく、医師の力もあった。また、薬物動態のアカデミアの力もあった。論文の著者名をみれば、複合的な構成がわかる。決して同じではないものが集まって、今に至っている。

欧米のPharmacometricsに関する事例や論文には、ある特徴がみられる。そこには共通して、「異分野の人たちとの協働とそのためのコミュニケーションが重要である」というトーンがある。私は最初、PMxの難しさのあまり、それを解説することの重要性に目をむけていた。だからセミナーであれなんであれ、わかりやすく話し、理解を求めてきた。ギリシャ文字で埋め尽くされたPPTよりも、視覚的なグラフがいいだろう?とか、そういうテクニカルなアドバイスが、具体的にあげられてもいたし、私たちもそういう表面の部分をとらえてきた。もちろん、プロマネやClinicianや、そういう人たちとの議論も重要と思ってはきた。しかし真剣にそれをとらえてきただろうか?

「PMxのアウトプットとはなんですか? 私たちはあなたがたに協力を要請されてここに来た。PMxとはどういう数値でアウトプットを出すのですか?」

素朴であり、もっともな問いだ。

コミュニケーションをうながす、幾多のPMx論文にみられる主張が大切なのかもしれない。「Trust me, we are professional」とみられかねないこの技術領域において、そういう風にみえるという意見はまさに出ていた。

こういうことをひっくるめた、思想の到達点は、実は最初に彼の口からでた。長年、PMxにつくしてきた人間の言葉だ。私は最初に聞いたとき、それを抽象論だと思った。しかし議論が最後までいったとき、私は最初に彼が話した言葉が結局のところ一番大事なのではないかと思った。長年にわたり、他者とわかりあおうとしてきた人の言葉、心のありていなんではないだろうか。

「Pharmacometricsが何かだって? うん、それは意思決定の科学なんだよ。定量的な意思決定というもの、その営みそのものだよ。解析とかそういうこともあるかと思うけど、それだけじゃない。PharmacometricianとStatisticianの区別があるかというけど、それを明確に切りわけられるなんてことできないよ。だってPharmacometricsというのは、チームなんだもの。チームで行ない、意思決定を促すんだよ。そこに関わっている人はみんなPharmacometricianなんだ」

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ηとω

2002年の冬の話だ。

私は母集団解析の基本的なところを、NONMEMを使いながら勉強していた。その頃、私のほかにも何人か、NONMEMを勉強している人がいた。会社の上司が少しだけ母集団解析をかじっており、それを私たちに教えてくれていた。

私はNONMEMにおいて出てくる用語にいささか混乱していたところがあった。ηとω、εとσである。慣れれば多少ぞんざいに用語を用いても通じるのだが、ここはちゃんと使わないといけない用語なのだ。

NONMEMにかかわる論文を読めば、特にnotationに気を使っている論文においてはちゃんと使い分けている。ただ、初学者には意外に区別がつかないものなのだ。

POSTHOC推定とは何かも理解することが難しかった。

このことを考えると、いつも思い出す風景がある。12月もクリスマス近かったと思う。

私はこのNONMEM勉強会にある日、出席できなかった。私の担当プロジェクトはそれなりに忙しく、その日、急場の血中濃度測定が入っていた。

勉強会の休憩時間だったのだろう。同じく参加していた人が実験室に訪れて、私に訊いた。

「PKモデルでよくある、Centralコンパートメントに他のコンパートメントが複数つながっているやつって、なんて言ったっけ」

私は、分析用のバイアルをオートサンプラーに並べているところだった。「マミラリーモデルじゃないですかね」。

「あぁ、そうだった」

簡単な会話だったが、なぜか今でもよく覚えている。

その冬の夜は寒かった。私は勉強会の中では目立つ生徒ではなかった。勉強会は5回くらいで終了した。その後、選ばれし人財(?)に対してだけ勉強会は続いたと思う。私は少なくとももう関係はなかった。

私は母集団解析を一人で、論文や教科書をベースに学ぶことに決めた。そして会社の外でいつの日か出ていけば、何か自分の求める答えが見つかるのではないかと思った。

それを決めたのが、このNONMEMについての社内勉強会だったというのは皮肉だったかもしれない。

この会のメンバーは今考えても特殊だった。選ばれし人財たちは会社から去り、別の分野に移ったりしている。会社に残った人もまた別のことをやっている。外に出ていった私だけが今もこの領域を続けている。

いくばくかの感傷もあるが、あの冬の夜が忘れられないのはなぜだろう。

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S-PLUSの本

2002年の夏の話だ。

私は神田の紀伊国屋書店にいた。母集団解析においては、S-PLUSが重要な役割を果たしていることを知った私は、書店でS-PLUSの本を探していた。

統計の本のコーナーを探すと、無愛想な本が目に入った。S言語とか、Sと統計モデルといった本だ。今でもおそらく販売されているはずだが、これは洋書の和訳であって、かつS言語に通じていなければ読むことは困難だった。私はそれを書店で見て、全くといっていいほど理解できなかったと思う。

タイトルからしてもっともわかりやすかったのが、ヴェナブルズとリプリーの書いた本だ。この本は、言語について詳細に記載するのではなく、あくまで統計解析を遂行するために必要な実務的な側面から書かれていた。何よりも、非線形混合効果モデルの章が存在していた。

ヴェナブルズ&リプリーは、その後しばらく私の愛読書となった。が、この頃はその本の適切な読み方を知らなかった。恐ろしいことだが、私はS-PLUSをまだコマンドラインから動かすということがほとんどなかった。S-PLUSでXpose 3を動かすことはしていた。その頃のXposeはClassical Xposeと今では呼ばれるものであり、メニューから実行したい機能を選択することで成り立っていた。だからSのコードをろくすっぽ書けなくても、それだけで実行できるのだ。

よって、私はヴェナブルズ&リプリーを購入して読んではいたが、Sのコードを実行するということはなく、そこに書かれている統計的な記述や原理を読んでいるという珍しい読者だった。これは、決してまともな読み方ではない。

しかし、この頃に覚えたことも確かに多い。少しでも混合効果モデルを理解する手掛かりがあるのかもしれないと思い、書籍の全体を読んだ。その結果、主成分分析や生存時間分析、決定樹、線形混合効果モデルといった方法を知ることになった。

Discovery PKのデータ解析にS-PLUSを使うかもしれないという機会が訪れたのが、このちょうど1年後だ。しかし、そのグループでは私はDiscoveryデータを解析するという立場は推奨されなかった。なんとなくそれをやっている人が他にいたし、私には別の役割が期待されるようになったのだ。この領域ではSPOTFIREというデータマインニングのための視覚化ソフトと、S-PLUSあるいはRの連携が行われていた。私はここのデータ解析をやろうかと思ったのだが、政治的な意向でそれはかなわなかった。

私は今でも、紀伊国屋でこのヴェナブルズ&リプリーを手に取ったときのことをよく覚えている。蛍光灯の明かり、そのときの空気。私は大学受験の浪人時代を御茶ノ水で過ごしたので、この紀伊国屋にはよく寄ったときがあった。その記憶と重なるのかもしれない。

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Net

2004年の春の話だ。

私はスキャナが置いてある部屋にいた。そこは現像するための暗室が奥にある、前室の位置づけの部屋だ。コピー機、スキャナ、現像用の備品がしまってある戸棚、そしてPCが一台ある部屋だ。

私はそこのPCで大したことのないデータ解析をしていたが、疲れてきたのでインターネットにアクセスした。その頃はインターネットアクセスについてもあまりうるさくなかった時代だ。そうはいっても仕事に必要なことを調べるだけであったし、またこの部屋にはあまり他の人が寄ることはなかった。

いくつかの検索語を入れるが、あまり面白いものは見つからなかった。そろそろやめようかと思ったとき、あるサイトをひっかけた。

驚いた。これは母集団解析についてのことが書いてある。

私は目をみはった。これは一般的な教科書やサイトには決して書いていない内容ではないか。私は夢中でそのサイトを読む。

これを書いているのは誰だろう。

当然であるが、ネットのサイトでは個人をにおわせるような手掛かりはない。タイトルから女性ではないかと思った。

私はしばらく画面を見つめていた。驚くことばかりだった。

私にとって、Pharmacometricsの原体験はいくつかある。これはその一つだった。私は後に、そのサイトの管理人と思われる人に会うことになるのだが、このときはまだそれを知らない。

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数学の記憶

1993年の春の話だ。

私は数学に自信がなかった。数学は好きで勉強してきてはいたものの、化学や英語のほうがとても成績がよかった。英語は、英国をはじめとするヨーロッパの歴史や文化にあこがれがあったからであり、とにもかくにも英語の本を読んでいたからだ。サマーセット・モームの「人間の絆」を原書で読もうとした。読み終わったか途中までだったか実は記憶がないのだが、かなり後半の一節でとても感動した覚えがあるから、だいたい読み通したんだろう。

化学もとても好きだった。これが今の進路を決めるきっかけとなった。有機化学がことのほか好きだった。

数学や物理への憧れがあった。どちらかというと、できるというよりできたらかっこいいと思っていた。これは憧れの世界だ。

しかしあくまでも憧れであった。できがよいほうだったわけではない。物理については、イメージを作るのが人よりも遅れたと思う。数学についてはなんとなく苦手意識があった。

大学に入ると、こういう科目をもっと全力でやらなければという思いが持ち上がった。強迫観念だったかもしれない。教養科目であっても夢中で勉強しなければ、留年するかもなどと考えていた。私は毎日、授業が終わると理学部の図書館に行って何時間か勉強して帰った。

大学の図書館には、個人ではそろえられないほどの蔵書があった。その独特の雰囲気が好きだった。これを好き勝手に読んでいいという環境は素晴らしいと思った。その頃、本が好きになったと思う。

だから読んでいた本が決して自分の専門分野の本には限らなかった。数学や物理学の本も多く読んだ。なぜかやたらやっていたのがベクトル解析で、rotやgrad、divなど、なんとなく不可思議な記号で表現する世界を理解しようと努めていた。

私は必死だった。何かに駆り立てられるように勉強していたと思う。自分の将来も見えず、生きがいもまだわからない中で、何かをつかもうとしていたと思う。これはとても苦しい日々だった。

逆三角関数が理解さえできていればいいような微積分の試験を緊張しながら受けていたことを思い出す。1993年の春はそういう時期だった。

私はまだそのあとの人生を想像もできていない。大学の学生であることが、とてつもなく貴重な身分であることを私は数年後に思い返すことになる。勉強だけしていればいい時期のかけがえのなさを。

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ロールシャッハ

2006年の秋ごろの話だ。

私とその人はロジスティック回帰をきっかけに、残差診断について考えなおしていた。非正規分布するデータの場合は、モデル診断が困難であるのは知られたことであり、残差も重要な意味を持たない。が、それをきっかけに、誤差が正規分布するモデルについての診断を見直していたのだ。

後になれば残差診断の重要性をもっとうまくまとめることができる。指標としての統計的特性が明らかであり利用しやすいことが、残差には求められる。ただ、その頃の私たちは、もうすこし無邪気だったと思う。

重要なのは人の目が高い性能を持っていることだ。特に、直線性からのずれについての鋭敏さがあげられる。プロットを作ってみるとわかるが、直線性からのずれに対する感度は、相関係数が0.95程度の2変量関係でもはっきりととらえられる。

しかし残差診断については、ある意味「はじけている」研究者もいる。Nicholas Holfordがその例だ。彼は残差診断をあまり重視していない。それどころか、解析の正常収束もあまり重要視していないのだが。

私たちはよくいく店にいた。いつもの通り、食事をして解析のことを勉強する。

私たちは診断については熱心だったから、残差の持っている性質を丹念に学んでいた。が、GOFについてどのくらいで良しと判断するのかがわからなかった。それで良いという人もいれば、不満足な人もいうるような診断法であることは、間違いなかった。

その人は残差診断を、ロールシャッハテストのようだと言った。見る者ひとりひとりに異なる印象を与えるものだ。ロールシャッハは本当に意味がない図形であるが、GOFは違う。が、それに対する態度が人によって異なることは、似ていた。モデルを「これでよい」というには、なんとなく図太さが必要なような気もしたものだ。

診断の話を振り返ると、このロールシャッハの話を思い出す。GOFの見方についてのセンスを得るには、たくさんの経験を積むことと、たくさんの論文を読むことである。

こういうことに気づくのは、科学というよりはしたたかさの部類に属する。あの秋、私たちはまだそういうものを持っていなかった。

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配置換え

2003年の秋の話だ。

私はその頃、熱心に母集団解析の技術を身につけようとしていた。セミナーや研究会の資料を片手に、NONMEMやS-PLUSを何とか動かしていた。その頃のXposeは3.1であり、S-PLUSからsourceコードとして読み込んで使うものであった。

私の関心は母集団PKPD解析に向かっていた。Population PKよりも、やはり薬理作用を説明するためのモデリングが大切だろうと思っていた。そのためにJusko型のPKPD解析を身につけたいと思っていた。

しかし、当時はまだ私の手元にはほとんど道具がそろっていなかった。Journal of Pharmacokinetics and Biopharmaceutics は難しすぎ、読みすすめるのは困難だった。いったい何を書いているのだろうと思ったほどだ。

今になってみれば、最初にアタックする雑誌を間違えていたが、その頃はもちろんそれに気づくことはない。

残暑が終わりに近づき、ようやく涼しくなるある日のことだった。会社の組織改編があることは半年前から知らされており、そのための業務を行なっていた。それもほぼ終わっていた。

9月の終わり、全員が一人づつ呼び出された。といっても、別に業務環境が変わるわけではない。全くの儀礼的なものであるという雰囲気があった。

しかし、私には違った。

私の職場は別に変わることはなかった。今まで通りの仕事を、今まで通りの職場で進めればよい。しかし、所属組織は変わる。そしてその組織は新設されたものであり、立ち上げのための様々な努力を必要とした。

そしてその組織にいる限り、”臨床”に携わることは決してなかった。ありえなかった。当時の私は臨床プロジェクトの担当者ではなかったが、母集団解析を勉強する意味は持てるような組織にいた。それが来月からは、母集団解析の勉強を公的に続けることは、”あってはならないこと”とさえいえた。

このときの話を、私は他人にしたことがない。私の落胆は2011年の今になってもまだ、うまい言葉にならず、この決定を許すこともできていない。

所属長に発令を言い渡された後で、私は居室の上のフロアで仕事を続けていた。目の前の画面に、刻一刻とLC-MS/MSのMRMクロマトグラムが描かれていく。内部標準物質と測定対象物質のピークがやや離れて描画される。重水素体の内標を用いるような段階ではないプロジェクトでは、これが普通だった。私はその画面を、なんとなく距離を置いて眺めていた。

部屋に、その人が入ってきた。私の隣に座る。私たちの間に言葉はなかった。その人は私のような配置にはならず、これから臨床プロジェクトにより密接に関与していくことになることは明白であったし、事実その通りになった。私は要はリストラクチャーされたのだ。

その人は私に何かしらの慰めの言葉をかけたと思う。私はその言葉を覚えていない。

私たちの関係には変化はなかった。私はそれから多忙な生活を送ることになるが、母集団解析の研究は業務とは関係なく執念で進めるものに変わった。

この配置転換は振り返ってみると不思議な影響を及ぼしたといえる。後に、この組織からもう一人、ファーマコメトリクスを追う人が育つことになる。

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時計の針

2002年の春の話だ。

夜、私たちはファーストフード店に寄った。ここはそれなりに評判がよいところで、マクドナルドに行くよりはここを私たちは選んだ。

もう何年も行ってない。道も忘れてしまった。店が広いわけでもなく、単に帰り道の電車の最寄駅に近かったというだけだ。しかし一生で一番通った店だと思う。

そこで私たちは何か世間話をした後、非線形混合効果モデルの勉強に移った。

そもそも尤度という概念にさえ慣れていなかったころだ。私たちにこれは荷が勝っているものだった。でも、積分記号と確率密度関数に何か私たちは魅せられていたところもあったかもしれない。

しかし、数学的な道具立ての難しさにはなかなか歯がたたなかった。線形代数の通り一遍の知識では不足なのだ。

そしてNONMEMによる解析のことについて議論をした後で、その人は言った。

「やはり思ったよりも難しい」

飾りのない言葉に、私も好感を持って答えた。

「非線形モデルだから、近似の概念が随所に出てくる。その近似に目を奪われると、本質的なところを見失うのかもしれない。混合効果モデルはそれだけでも、要は線形でもあなどってはいけないものだろうから、LMEの知識を身につけたほうがいいみたい」

「プラクティカルにはFOとかFOCEとかの違いが大切だろ?」

「そうだろうけど。」

私たちの話は、今になってみれば決して高度なものではない。いや、高度なものである必要は別になかった。これも今になってみてわかる。結局のところ、ヒトは身の丈にあったことしかできないのだ。いきない悟りを開いて、超人になることは現実の人生ではありえない。

帰りがけにふと言った。

「NONMEMが開発されたとき、動態解析はふつうの非線形最小二乗法があたりまえだった」

「そうだな」

「Sheinerの初期の論文は、OLSの重みづけに関するものだということが、その時代を表している。でもそのあとで、ELSということをやり始めた。混合効果モデルをいきなり持ち込んだ。臨床統計でさえそんなことはしていなかったのに。」

11時をまわっていたと思う。

「そしてNONMEMを作った。すごいな。彼らは間違いなく、時計の針を大きく進めた人たちだよ。どうやったらそんなことができるんだろう」

2011年の今、私は自分の言葉を反芻することがある。母集団解析は医薬品開発にとってますます重要になっている。計算機の発達は、現実の課題にさらに縦横に解析を適用できるようになった。それらが集まって、Pharmacometricsとなった。いや、Pharmacometricsという言葉の歴史は2000年代ではない。JPKPD、いやJPBにPharmacometricsというセッションが作られたのは、1982年である。そのChief EditorがSheinerであった。

その2年後の4月、Sheinerはスイスのバーゼルで亡くなった。私たちは一度も彼をこの目で見ることはなかった。

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Dog Days

2006年の夏ごろの話だ。

「ハンズオンで教えてくれるところがある」

その人が私に言った。聞いてみると、レベル別に3コースあるのだという。その2年くらい前から、その人はNickが来ているそのカレッジに参加していた。私は資料やプログラムをもらったりしていた。

「ふうん、どれに行ったらいいかなぁ」

私たちはさすがに初心者ではなかった。いや、初心者ではないと思っていたというほうが正しい。振り返ってみると、私たちは全くの初心者だったのだが。

私たちは中級コースに行こうとまず決めた。勇んで申し込みをしようとしていた。しかしその人は社外にこの分野の友人がいて、情報を集めてきた。

「一番上に行こう」

その人にしては珍しく、強気な発言だった。

「え? 大丈夫かなぁ。上級だよきっとこれ」

「きっと大丈夫」

当日の日差しは半端ではなかった。初めていくキャンパスは遠く、私は道に迷った。賢いのは一つ手前の駅からタクシーに乗ることだ。

暑い中、必死の思いで会場に到着すると、たくさんの参加者が既に着席していた。盛況だなと思いながら、空いている席を見つけて座る。その人もやや離れたところに座っていた。誰もが知っている先生が開講の挨拶を行うと、私たちだけはすぐに別室に移動することになった。

それからの2日間は、もっともショッキングな2日間だった。まず、そのモデルを扱ったことはなかった。知ってはいたのだが、このソフトでやれるとは思っていなかった。教科書にヒントがちりばめられている。しかしそれを紡ぎ合わせて解析するところまで、まだ至らない。パラメータが原則、正であるPPKと異なり、このモデルでは正負いずれもとれる。そんなことさえ思いつくのに1時間くらいかかった。

家に帰っても演習は続く。私は翌朝の4時までPCを動かしていた。そして翌日、シミュレーションを行う。

午後のカリキュラムが進行して、私は恐るべきものを見た。同じ2日間でもありえないほどの解析量をこなす人が二人いた。スクリーンにはS-PLUS、SASのコードが映し出された。

私はありえないと思った。ハンマーで殴られたような衝撃だった。私は上級者などではなく、その入り口にも立てていない、ど素人だった。ファーマコメトリクスの世界は想像よりもはるかに広く、そして世の中にはほんとうに優秀な人がいるのだ。

「すごかった」

私たちは帰路、見たものを信じられないような気持ちを隠せぬまま歩いていた。夏の日差しはとっくにゆるやかになっていたが、頭はまだくらくらしているようであった。

「ありがたい」と私が言うと、その人は何のことか聞き返した。

「本物というのは、ああいうものなんだ。それを見たと思う」

その人は軽く笑った。

「想像の世界で何かを追いかけるより、ずっといい。追いつきたいと思った?」

来年もやるんだろうな。

考えながら、私はうなずいた。

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