音楽

君の名は希望  (乃木坂46)

2014年も始まりました。今年もよろしくお願いいたします。

http://www.youtube.com/watch?v=-B4c_78jNnI

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遠い街へ  (指原莉乃)

指原莉乃の歌。

http://www.youtube.com/watch?v=zIpI5TywmWY

この曲は彼女が所属するアイドルグループで作詞を行なっている秋元康ではなく、指原莉乃本人が作詞している。

彼女はとある理由で博多に移籍したのだが、その後の歌である。彼女の所属するグループのスピンオフユニットの劇場盤CDに収録されていて、入手も難しい。というか、一般の人はそれを買おうとはしないだろう(ちなみに、Amazonなど音楽配信においては販売されている)。

そのため、この曲を聴くのはけっこう難しく、ちょっとコアめな、ファン動画みたいなところを引っ張るしかなかった。おそらく知名度はほとんどないんじゃないかと思う。

すっと聴ける歌なのだが、言葉の選び方のセンスはすごく高いものを感じる。

1番では東京から博多に移った時の心情を語っている。そして2番は、家族への想いだ。

「生活に慣れない」という表現だけで、遠くに来たことがよくわかる。電気をつけたままだったんじゃないか?とふと考えてしまうこと、それが、自分の部屋も含めて、毎日当たり前のようにすることがまだ当たり前ではないことを示している。

「帰りたいとは思わない」という言葉、「強がっているだけ」という言葉が、本心は強い孤独を感じていることをにじませている。不安なのは、初めての一人暮らしのせいだ、と言う。それがそうでないことは、容易に察しがつく。

何度もメールを読み返して何度も涙を流す。涙を流す理由は、遠くに来たのが望みではないからだ。それはつらい体験であり、多くの友人との意図せぬ別れを含んでいたからだろう。

「テストの点や夕食の話をしていたころが懐かしい」のだ。今は、そんなことを話すような状態ではない。でも、本心からつらいとも言えない。親にさえもだ。

切ない歌のように思えて、直接的な描写は涙を流していることしか詞からはわからない。この歌の世界観は、とても抑制がきいている。ほとばしるような感情の流れではなく、抑制された悲しみの世界。

どこにでもあるような歌のようにもきこえる。でも、こういう歌はそうでなければいけない。大きく飾らず、悲しみを押しつけず、淡々と世界を描画しなければならない。

それほど感動を狙わない素朴な言葉でつづられるこの歌は、メロディーラインのストレートさも含めて、20才の女性の世界を描写した、優れた作品だと思う。

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ガチでなければバラードは美しくない

バラードが美しく響くには、その歌い手とかその曲の作り手の生き様が鮮明に伝わらないと厳しい。

ガチなものが一番美しい。私たち聞き手に提示されるその物語が、どんなものであっても、それにフィクションがどのような割合で混じろうとも。

完全な第三者が、最大公約数の表現で狙って作ったバラードは結局のところ、心を打たないんだと思う。

今の世の中は、完全に架空のものは通用しにくくなっている。今、この時を生きる人の生き様を、良くも悪くも切り売りしなければ共感が得られないんだと思う。

大事なメッセージは一つなんだと思う。「私はこう生きてきて、こんなことを感じてる。みんなはどう思うんだろう? 共感できる人はついてきてほしい」

偶像を売ることが仕事であった人々でさえ、もう夢の世界だけを人々に与えることはできない。ほんとうに仕組まれた夢に、私たちは夢をみることがもうできないのだ。

何もないところからスタートして、試練の末に何かをつかむ。そしてつかんだものが、本当に自分が望んだ夢そのものではないかもしれない。それは通過点でしかないから満足できないという意味かもしれないし、自分が望んだものと違った形をしていたという意味かもしれない。

これは人生の形だ。運命にどうしても動かされる私たちそのものでもある。現実は甘くないから、どんなに権力があっても実績があっても、この物語を作ることはとてつもなく難しい。

ショーではある、間違いない。でも、やらせにはできない。

ショービジネスも難しい世の中になった。でも、現実を見せるのが、その大きさの夢になる時代が来たということだろう。そのほうが、私たちの人生に近いのだから。

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誕生  (中島みゆき)

中島みゆきの名曲である。

この誕生という歌の魅力は、この孤独な歌詞にある。中島みゆきはよくユーミンと比べられたのだが、歌曲の雰囲気は真逆である。ユーミンは、明るい世界の悲しさをうたい、中島みゆきは絶望の中の希望をうたう。二人はとても違うようにみえるが、一部のゾーンがかぶっていることもまた事実だ。

この誕生という歌。非常に難しい歌だ。

構成として、Aメロと呼べばいいのだろうか。前半部がそれだけで歌曲になるだけの完成度を持っている。Bメロとここで便宜上扱うのは、「Rememer...」から始まる、アレンジも歌い方もスケールの大きい部分だ。

この曲の印象は、木に竹をついだようなというのが第一印象だった。Aメロ部分は、きわめて個人的な、愛の歌である。それも悲恋の歌だ。

http://www.youtube.com/watch?v=DI6N803NC44

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一人でも私は生きられるけど、でも誰かとならば人生ははるかに違う。

強気で強気で生きてる人ほど些細な寂しさでつまずくものよ。

呼んでも呼んでも届かぬ恋でも、むなしい恋なんてあるはずがないと言ってよ。

待っても待っても戻らぬ恋でも、無駄な月日なんてないと言ってよ。

めぐりくる季節を数えながら、めぐりあう命を数えながら、恐れながら憎みながらいつか愛を知っていく。

泣きながら生まれる子供のように、もう一度生きるため、泣いてきたのね。

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歌い手は若くはない。こんなことは30代で歌えはしない。

待っても待っても戻らぬ、無駄な月日を知っている人であるからこそ、そんな月日なんてないと言ってほしいのだ。これは、20代や30代の人間のセンスでは断じてない。歌い手は、人生を共に歩く誰かをほしがっている。強気でそんな人はいらないといっても、寂寥を止められないのだ。愛することを恐れながら、そして実らぬ愛を恨みながら人生を生き、そうすること自体が生きていくことなのだ、というのがメッセージだ。

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振り返る暇もなく、時は流れて、帰りたい場所がまた一つずつ消えていく

すがりたい誰かを失うたびに、誰かを守りたい私になるの

わかれゆく季節を、数えながら、わかれゆく命を数えながら、

祈りながら、嘆きながら、とうに愛を知っている

忘れない言葉は誰でも一つ、たとえさよならでも愛してる意味

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2番になると、もっと視点が後ろになる。もっと歳月が経っている。歌い手は、得るよりも失うことのほうが多くなっている。季節が過ぎゆく中、いつしか会わなくなる人が増え、人生は出会うよりは別れることを意味するようになる。

何を祈っているのか? わかれないことだ。今わずかでもまわりにあるものを失わないことを祈る。歌い手はそれを守ろうと思っている。しかし、それは決してかなわないことであり、過ぎ行く季節の中で失っていき、それを歌い手は嘆く。

残るものは心の中だけである。心の中にある言葉、たとえそれが別れの言葉であったとしても、それは自分にとっては永遠に残る愛の言葉なのだ。

この歌の解釈は、私にとってはとても難しいし今でも自信がない。最後のフレーズ、「たとえさよならでも愛してる意味」は、恐ろしい日本語だ。

この1番2番のAメロは、人生のある側面を確実に切り取っていて、私はどうやったらこういう詩を思いつけるのか想像さえできなかった。

一方で、Bメロは、こういう人生の悲しみの起伏の中で、あなた自身が祝福された存在であるからそれを忘れるなと歌いかける。Bメロは何度もRememberと歌う。思い出せ、忘れるなという意味だ。Aメロが聴き方によっては私小説的な独白にも思えるのに対して、Bメロは相手に対する呼びかけである。

この対照性が、私にはどうしても違和感がある。が、Bメロなしでは歌としては暗すぎるのかもしれない。

Youtubeにはけっこうな数がアップされているが、試しに誰かのカバーか合唱版を聞いてみるといい。実は、中島みゆきが歌うとこの違和感はものすごいが、ほかの人が通して歌うと不思議にこのAメロとBメロは自然に聞きとおせてしまう。

つまり、彼女の歌い手としての力量と世界観を構築する力が、前半後半の対照性を際立たせてしまっているといえる。これに気づいたのはまだ最近のことだ。

私はこのAメロ部分が好きで、それだけでいいと思っている。

なぜか? この世界観に私は共感できるからだ。この孤独な世界観にだ。

よく聞いてみるとわかる。歌い手は孤独であり、人生を達観しており、もう若くない。人は孤独であることを十分に理解している。

が、それを受け入れている。そうすることによって、歌い手は孤独を克服しているのだ。

暗い世界の中に、自分の心で一筋の明かりをともすこと。そういう中島みゆきの世界が、十分にあらわされていると思うからだ。

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チェッカーズ

チェッカーズは今考えても不思議なグループだ。

彼らはアイドルとしてデビューした7人組である。おそらくもう今の若い人はフミヤがソロになった後のことしか知らないかもしれない。チェッカーズは当初、強力なアイドルバンドだったのだ。1983年デビュー、1992年解散。10年活動したことになる。アルバムも10枚。

Wikipediaってありがたいものだ。活動期間やアルバムが時系列に並んでいる。記憶に頼らずに済む(笑)

このバンド、面白いのは、1983年から1986年までの最初の4枚のアルバム。ここでの音楽スタイルはアイドルソングであり、アメリカンポップスが主流なのだ。

アメリカングラフィティと言ってもいいな。アメリカの高校生あたりの陽気な生活、恋、悩み、そういったものを快活に歌っているというか。

80年代の半ばというのは、歌謡曲とニューミュージック、アイドルと歌手といったもののクロストークというか、混合が始まる時代だ。チェッカーズみたいに、歌手志望なのにアイドルとしてデビューした人たち。CCBみたいにアイドルなのにロック歌手としてのカラーを強く出したかった人たちなどが混在している。

チェッカーズもアイドルでありながら、自分たちの活動を音楽に集中している。彼らの活動全体を俯瞰すると、確実に彼らはバンドであり歌手なのである。

この、83年から86年の間にも、最初は他人の作った歌を歌っているのだが、徐々にオリジナル曲が入り始める。アメリカングラフィティの最高傑作としてのアルバムになったのは、4枚目、1986年のFLOWERというアルバムであり、後年も人気の高い曲が多い。

また、Song For USAも86年である。チェッカーズのアメリカンスタイルはここで完成されるとともに、終わったともいえよう。

世相だなぁとも思う。高度経済成長を経て、オイルショックを克服し、バブルへ駆け上がろうという時代。アメリカにここまで単純に憧れ、日本が見習っていくスタイルは、今日ではほとんどない。チェッカーズの初期スタイルは、現在ではありえず、この当時だからこそという感じがする。

面白いのはこのあと、87年のGOというアルバムからセルフプロデュースに入る。オリジナル楽曲のみで勝負するのだ。

チェッカーズはおそらく周囲の人たちが想像する以上に、高い実力を持っていた。作詞作曲、演奏技術においてだ。スキルは年々向上している。彼らは、バンド内で楽曲のコンペをやっていた。タカモク以外は全員曲が書けるわけであるが、6人で作詞作曲するバンドというのは非常に珍しい。彼らは解散まではアイドルという立場を崩さなかったが、単純なアイドルとして生きていくのはもう無理だった。光GENJIにファンを根こそぎ持っていかれた(笑)からであって、チェッカーズは残ったファンを音楽で捕まえていくのだ。

後期チェッカーズは、アメリカンポップスの香りを残しながら独特の楽曲を発表していく。私が理解できないのは、彼らの音楽を類型化することが難しいことだ。

普通は、誰かの影響を受けているので音楽には出自を感じることができる。が、彼らの場合は、アメリカンポップスと、ちょっとかっこつけたアイドル風の演出を維持しながら、アーティスティックな部分を目指したため、何とも言えない混合型のスタイルになったのだ。

だから、現在に至っても類型のバンドを見つけることは難しい。CHAGE&ASKAの活動後期にもやや似たような雰囲気を感じるが、出自としては歌謡曲の影響が強いことがわかる。

そういう意味で、チェッカーズはユニークなバンドだった。活動中期から後期にも名曲が多く、彼らが本当にやりたかったことが何だったのかは個々の楽曲という形からわかる。

が、キャロルにあこがれて始まったバンドがどうしてこうなったのか。着地点としては予想の斜め上というか、分析にあてはまらないような気がする。

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翳りゆく部屋  (荒井由美)

荒井由実、最後のシングルである。この歌の発表の後、荒井由実は結婚し、松任谷由実となる。

この曲はユーミンの歌の中でも決して最初に思い出される曲ではないが、知名度は高く根強いファンが多い。かくなる私もその一人だ。彼女のファンであれば、まず間違いなくこの歌を知っているし、格別の思いを持っていてもおかしくないだろう。

この歌は別れの歌である。それもあまりいい別れではないことが推察される。歌い手は女性であり、彼女の恋の一途さ、真剣さが歌からは伝わる一方、男の方はややそれほどでもない。ちょっと下衆なのではないだろうか、思いやりのないつっけんどんな別れが感じられる。

 

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窓辺においた椅子にもたれ、あなたは夕日見てた。

投げやりな別れの気配を横顔に漂わせ。

二人の言葉はあてもなく、過ぎた日々をさまよう。

振り向けばドアの隙間から、宵闇が忍び込む。

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1976年の歌である。学生運動に身をついやしていた大学生の雰囲気が察せられなくもないが、猛威をふるった学生運動は70年代の後半にはもう下火になっているから、この歌に込められている情景にそういうものを感じるのはやや考えすぎかもしれない。

だが、恋愛にかける真剣さ、真摯さが伝わるこの歌は、当時の若い学生の生き方を反映している気もする。

別れの時にお互いの言葉があてもなく過去をさまようというのは、よくわかる情景であるし、いくつかの小説にもみられる。心象風景と自分の目でみたその場の情景、ゆっくりと近づいてくる夜が、光のささないふたりの関係を示している。

 

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ランプを灯せば町は沈み、窓には部屋が映る。

冷たい壁に耳をあてて、靴音を追いかけた。

どんな運命が愛を遠ざけたの、

輝きは戻らない、私が今死んでも。

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荒井由実が美大の出身だったからかどうかはわからないが、私はこの描写、部屋の明かりをつけると町の風景は見えなくなって窓に部屋が映るという一節がすごく美しいと思う。男は部屋を出ていき、歌い手の女性は遠ざかっていく彼のことを心の中で追いかけている。

私がすごく気になるのが、「私が今死んでも」という言葉である。

この歌詞は、すごく唐突に、かつ倒置法により最後に差し込まれる。

恋を失った女性が嘆くのはわかるが、死を思うほどのものなのだろうか。自分が人生をやり直してもなお、もう輝いた日々は戻らないという悲嘆の大きさ。これが、淡々と歌われるこの歌に差し込まれると、どうしても強い印象を受けずにはいられず、動揺してしまう。

この歌はパイプオルガンやストリングスによって、賛美歌に近い雰囲気に仕上がっている。荘厳なつくりである。この編曲、私にはよくわかる。私でも絶対そうする。この歌をピアノ伴奏一本とヴォーカルで聞くことを想像してみるといい。あるいはアカペラで。この歌の作り出す世界はあまりにも暗く、ちょっと耐えられない。

この歌は、少ない歌詞とストレートなメロディーで、非常に強い詩的なインパクトを与えることに成功している歌である。私はこの歌を聴くとすごく悲しい気持ちになる一方で、死の淵から見える世界の美しさに息を飲む思いがする。

なお、荒井由実はこの歌を最初、「マホガニーの部屋」という名前で、少し異なる歌詞で作っている。メロディーなど含めて最初に作ったのは14才の頃だったそうだ。

インターネットでは、「マホガニーの部屋」の歌詞も調べることができるが、翳りゆく部屋の方がより大人の世界を構築していて、もっと踏み込んだ孤独を感じる。荒井由実の歌は文学少女の歌のように聴こえることが多いが、現実の世界の悲嘆のほうがより静謐な美しさがあると思う。

この歌は多くの歌手によってカバーされている。が、オリジナルをまずは聞いたほうがいい。

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I'm proud  (華原朋美)

華原朋美3枚めのシングル、作詞作曲は小室哲哉である。華原朋美の最大のヒット曲であり、ミリオンセラーだった。

華原朋美と小室哲哉のことは誰もが知っているだろうから、特に書かない。この二人は恋人だった。小室哲哉は既に大物アーティストであり、彼は新人の女性歌手をプロデュースしスターダムへ押し上げた。

小室哲哉の音楽はかなり理系っぽい。彼はどういう音楽ならヒットするかを計算して作っているふしがあり、彼の作る音楽はいわば実験的な匂いが漂う。それはもう、TM Networkの頃から顕著である。

彼の音楽におけるアプローチは、そのままプロデュースへも適用される。Globe、TRFといったスタイルの異なるいくつかのユニットをプロデュースし、音楽シーンにおいて何がヒットするのか、何がヒットさせうるのかを全体的に実験した。

優れた作詞作曲家は無意識にこういうことをする。が、それが一般の人にはっきり伝わることは珍しい。が、彼の場合は、かなり明白にそれが伝わったと思う。

その彼の活動の中で、華原朋美は特殊だった。後のインタビューで「アーティストを発掘したというよりは、歌のうまい自分の恋人をデビューさせた」という趣旨の発言がされている。それがわかるのは、華原朋美の楽曲にはかなり私小説っぽい雰囲気が漂うことからも感じられる。

彼らがある意味ではユニットであったこともわかる。I'm proudをはじめとするPVにおいては、小室自身も出演しており小さからぬ扱いである。

彼らは当時のOL層を含めて大きな人気を博した。これが一種のシンデレラストーリーだったからである。

残念ながら、この物語はハッピーエンドにはならなかった。個人的には私もそれを残念に思った。そのあとのいろいろなことは皆が知っての通りであり、最近、歌手としてようやく復活したこともだ。

別にこのあたりのことについて、どうのこうの言うつもりは全くない。別れても面倒をみるというか、プロデュースはできなかったのだろうか、ということだけは感じる。が、それは双方の感情があってのことだから、やっぱりこういうことについてあれこれ書いても仕方ないと思う。

さて、I'm proudである。最も勢いのある曲だと思う。この歌は、自分の居場所を見つけられずにさまよっていた少女が、ひとつの出会いを通じて自分の情熱をつなぎとめるもの、自分が誇れるものを見つけて自分を取り戻しはばたいていくという物語だ。夢が素直に見れない自分が、自分を受容して私をあなたに見てもらうと言い切るまでの物語である。

この歌の特徴は、全編にわたるクレッシェンド気味の進行と上行音型だ。イントロなしに口火を切る歌声がのるシンプルなメロディーは、上行音型ではない。が、背後に流れるストリングスの音色は上昇を続ける。歌の最初の1分が、この歌の最大の聴きどころの一つである。このアレンジはシンプルだがその当時のポピュラー音楽では非常に珍しく、大変に優れた効果をあげる。

歌い手は孤独な少女であり、「とどきそうでつかめないいちごのような甘く切ないことを夜中思い浮かべながら、町の消えていく明かりを一つ一つながめている」。少女にとっては夜は恐れの対象でもある。その描く夢は、あくまでも理想であり現実の世界とはどうやっても離れていることが聞き手には推察される。

華原の音程は全体を通じてところどころあやうく、きわどいバランスをとっているように思える。これが歌のリアリティを増している。「壊れそうで崩れそうな情熱をつなぎとめる何かをいつも探して続けている」歌い手の歌唱技術が100%であるわけがないのだ。そのあやうさを迷いなく振り切るかのように歌声を飛翔させ続けることこそが、この歌を身に迫るだけのものにさせているのだ。

メロディーは普通の人の知っている作曲理論の範疇を越えた展開をみせている。Aメロとされる部分は、ドリア旋法という技法だ。グリーンスリーブスのような英国民謡や宗教音楽にある技法である。その後、5音音階、ペンタトニックスケールのメロディーとなる。作ろうと思っても作れないようなメロディーで、これが万人受けするヒットまで持っていけたということには正直驚きを隠せない。

メロディーは転調を繰り返しながら上行していく。華原は音域の広い歌手であるが、高音域にメロディーがシフトするにつれて音程がどんどん定まっていくようになる。これが、不安定な旋律線を紡ぐ前半から、確固たる誇りを持って生きていくという誓いを歌う最終盤への説得力となり、聞き手が無意識に引き込まれていく要素となっている。

http://www.youtube.com/watch?v=erf-9e7trWk

I'm proudはシングルカットされた[Radio Edit]と、終盤の歌詞が異なるアルバムに収録された[full version]がある。この歌は full version の方が数倍魅力的だから、聴くならそちらのほうがいいと思う。最後のメロディーでの歌詞が変更されている部分があり、より力強い印象を与える。

最後に、これを15年後の今、もう一度歌いあげるということに特別な意味や感慨を感じずにはいられない。人生にはわかりやすい、ドラマのような復帰などほんとうはありはしない。良くも悪くも人生は続き、良い時があるようにみえればまた、悪くなるときが訪れる。人生は振幅でできているからだ。だからこれでもう大丈夫ということはないと私は思う。またダウンして、周囲の人々やファンが悲しむということだってありえる話なのだ。それは自然の転帰として。

が、そうであってもなお、前に踏み出していくこと、自分を信じていくことはとても大切だろう。その一瞬一瞬がかけがえのない人生だからだし、そもそもこの歌は、そういうことを歌っているではないか。それを何度繰り返してもいいのだ。完成された大人などこの世には存在しない、私たちはいつだって自分の情熱をつなぎとめる何かを探しながら前に進むのだから。

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Still Love Her 失われた風景  (TM Network)

TM Networkの名バラードである。現在、iStoreからも購入可能である。CAROLという、TMN初のコンセプトアルバムに収録されているのだが、他曲と比べて人気が圧倒的でちょっと笑ってしまうほどだ。

Get Wild と並んでファンが多いこの曲は、アニメ「City Hunter」のエンディングにもなったことで有名である。

さて、この歌。とてもシンプルな歌である。曲は転調を伴い、その部分ではやや平衡感覚がくらっとくるような瞬間があるため、ヴォーカルとしては緊張感があるような曲だ。自然な転調なのだが、その挿入タイミングがユニークなため集中力を必要とする。

メロディーは小室哲哉の作曲とアレンジ。シンセサイザーあるいはピアノの打鍵が、非常に効果的である。

が、歌詞が言いたいことはすごく少なくてストレートだ。

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歌を聴かせたかった、愛を届けたかった、想いが伝えられなかった

僕が住むこの街を、君は何も知らない、僕がここにいる理由さえも

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この最初の8小節が、すごい表現力を持っている。歌い手には失った恋人がいて、その人と遠く離れた街に住んでいる。離れた街に住むようになったのは、失ってから時間が経ってから。だから、彼女は歌い手が住む街について何も知らない。

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もし、あの時が古いレンガの街並みに、染まることができていたら、君を離さなかった。

もし、あの歌を君がまだ覚えていたら、遠い空を見つめ、ハーモニカなでておくれ。

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歌い手は彼女への愛がまだある。失った愛から、離れることができていない。歌詞をよく聞くとわかるが、この歌は片思いの彼女への歌というよりは、二人でドライブへ行ったり、そこで彼女が歌を口ずさんだりするように、恋人関係であったことが推察できる。

この恋の舞台はヨーロッパのどこかだ。古いレンガの街並みに、あの時が染まれなかったことを歌い手は悔やんでいる。

歌は淡々と歌われる。失恋の歌によくみられる、大きな感情の発露はない。この歌は、全体が歌い手の回想と今の生活について、心の中をよぎる想いと風景の2面から構成されている。

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冬の日差しを受ける公園を横切って、毎日の生活が始まる。

時が止まったままの僕の心を、二階建てのバスが追い越していく。

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歌い手の心の中で、時は止まっている。彼女との別れから、ずっと。それでも歌い手は毎日の生活を生きていることがわかる。冬の日差しを受ける公園を横切って生活が始まるというのは、歌い手が何か新しい生活に取り組んでいることにほかならない。

彼はきっと、新しい街での生活をそれなりにうまくやっていっている。この歌からは、日々の暮らしについての苦しみや悩みは感じられない。むしろある程度の成功をつかみつつさえあるのかもしれない。二階建てのバスが走る街は都会であり、落ちぶれているというイメージはない。しかし、時が止まったまま、と自分の心を表現することによって、そういうものとは関係なく歌い手の心の中には悔恨と、空白があるということが見事に表現されているのだ。

私はこの歌い手の気持ちが痛いほどにわかる。ここで歌われている寂寞とした心象風景と、冬を迎える欧州の古い街並みの対比が、とてもよくわかるのだ。

歌の最後で、歌い手はこう歌う。季節はますます厳しくなり冬を迎えている。愛していた人のことを、いまだ愛しており、その喪失感が変わることがない。季節が冬を迎えていくのは、歌い手の心がまだ痛みを抱えていてそれが消える兆しもないことを象徴している。

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歌を聴かせたかった、愛を届けたかった、想いが伝えられなかった

枯葉舞う北風は厳しさを増すけれど、僕はここで生きていける

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だが、歌い手はここで生きていける、という。

私はよくわかる。自分の心がどれほど止まっていても、今の生活を掴んで生きていくことはできるということが。

歌い手は決して何かに吹っ切れたわけではない。全編を通じて、そのような描写は一つもない。

が、歌は最後に、ここで生きていけると締めくくられる。

自分にとっての哀しみは何も変わってはいないのだが、自分が生きていくための手触りだけはある。そうやって日々を生きることができる。最後は、自分にわずかに残されたもの、それが何かは聴く人に任せられるのだけど、その小さな感触を確かめながら、毎日の生活に歩き出している。そういう孤独な歌い手の背中がみえてくることが、このバラードの大きな魅力なのだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=uTWPVsd3Huw

こちらは懐かしい、City Hunter 2 のEnding。City Hunterの舞台は主に新宿であり、私が生きていた街でもあった。とても懐かしい。

http://www.youtube.com/watch?v=HP0VVaPYzHk

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M  (プリンセス プリンセス)

プリンセスプリンセスの名バラード、M。

プリンセスプリンセスは幼馴染でもなく学校の同級生でもなく、そういう人間関係のベースがあって構成されたバンドではない。各楽器、パートのオーディションで選抜された人で構成された、いわば寄せ集めのバンドである。それが、ガールズバンドとしては商業的に最大の成功をおさめた。

プリンセスプリンセスを名乗る前には、アイドルバンドとして赤坂小町という名で活動したが売れなかった。これを打開するために、彼女たちはプリンセスプリンセスというバンド名でいわば殴り込んだのだ。

2012年、彼女たちは東日本大震災のための義援金募集のためのチャリティバンドとして活動を1年限定で再開している。残念なことに、私はそのライブに行くことができない。

さて、プリンセスプリンセスの名バラード、Mである。印象的なピアノの旋律の後、歌唱が始まる。プリンセスプリンセスの楽曲においては、3拍子がうまく使われていることが多いのだが、Mもそうである。Mはバンド譜こそ4/4なのだけれど、前半語るように自分の気持ちを歌う部分は三連譜を基調に構成されていて、聞くだけだと6/8拍子の楽曲のようだ。

(というか、こう書いていいんだろうか? Webで調べると4/4なのだけれど、彼女たちが使ったのは6/8なんてことはないだろうか。)

のびやかな旋律を歌う部分になって、ボーカルは4/4としてのテンポになるのだが、ドラムやギターはすべて3拍子を基調とした伴奏を続けるので、基本は3拍の楽曲である。

私がこの楽曲がすさまじいものだと思うのは、これが歌う失恋の姿がなぜだかすごく鮮明であることだ。

この歌は、別れてからだいぶ時間が経った、女性の感情を歌っている。彼女は愛する男性から別れを切りだされ、そして関係は終わりを告げた。「季節はまた変わるのに、心だけ立ち止まったまま」というのは、別れから経った年月を物語っている。感覚的には、2-3年後のような気がする。

歌詞の中に散りばめられたイメージは、とても共感が得られるものだ。彼女は常に彼の左側を歩いていた。「あなたのいない右側に、少しは慣れたつもりでいたのに」という言葉。

それなのに、彼女は今でも「涙がでる」。その理由はもちろんまだ愛しているからだ。他に理由があるだろうか?

でもそうとは認められないから、理由がわからないと歌う。でもまた、あなたを忘れるのに「勇気がいる」と歌う「。彼女が持つ、未練がすごくよくわかるフレーズなのである。

「今でも覚えている。あなたの言葉、肩の向こうに見えた景色さえも」という言葉には、私は正直うなだれてしまった。別れを言い渡されたときの景色はなぜか、視覚的によく覚えていることは、私もよく知っているからだ。私もよく「覚えている」のである。そう、肩の向こうの景色さえも。

歌の中で、彼女は回想する。「出会った秋の写真には、はにかんだ笑顔、ただうれしくて。」と。そして、「こんな日が来ると、思わなかった」と続くのだ。

「出会った秋の写真には、はにかんだ笑顔、ただうれしくて、

こんな日が来ると思わなかった、

あぁまばたきもしないで、あなたを胸にやきつけてた」

ここは聞きようによっては解釈が別れる難しい場所だ。「こんな幸せな日がくるとは夢にも思わなかった」と聞くのが正しいだろう。

ただ、私は最近、まったくそう聞こえなくなったのだ。こんな日というのは、別れてもなお忘れられなくて涙を流す日々のことなのだと聞いても解釈が成立する。このあたりの歌詞は、幸せなころと現在との間を短い間隔で往復している。ここでは、感情が大きく振幅していると考えるほうがリアルではないか?出会って、恋が叶ってうれしかった。でも、こういう別れを想像できなかった。そんな日が来ることも知らず、「まばたきもしないで、あなたを胸に焼きつけた」と歌っていると考えると、私にはとてもわかりやすく、かつすごく悲しいのだ。

(なお、私の解釈のほうが間違っていると99%断言できる。音楽の自然な抑揚と感情の抑揚のリズムが合わなくなるから)

直後に、「消せないアドレス、Mのページを指でたどってるだけ」と歌うではないか。

そう。この歌はあくまでも現在の歌なのだ。決して戻らない自分の恋を、はかなんでいる。そしてそこから抜け出せないのだ。気持ちが過去と現在を行き来しているだけなのである。

目に見えるかのような詩が続く、「黒いジャケット、後ろ姿が誰かと見えなくなっていく」なんて、恐ろしいイメージではないか。おそらく、彼女はその光景を見たわけではない。現実の世界には、新しい恋人を連れて別れを告げる人もいなくはないだろうし、私もそういう人を知っている。が、その場合は「誰か」なんて言わないはずだ。ここは彼女の心象風景とみなすべき部分だ。でも、それほどまでに鮮烈な思いが、彼女の中に浮かんでいる。

そしてそんな傷ついた気持ちと、彼をまだ愛しているというその気持ちも、ゆっくりとではあるが消えようとしている。「星が森へ帰るように」消えようとしている。彼といたときにしていた「小さなしぐさ」も、「はしゃいだあの時の私」も。それは夜が終わりを告げるかのように自然なことなのである。それは極めて緩慢なものであって、忘れつつあるのは確実であるのだが、まだ新しい一歩を踏み出せていないという、長く続く場所に立っていると。今でも声が聴きたい、アドレスも消せない、夢にもみて目が覚める。どうやっても忘れられない気持ちの中で、でもそれは、少なくとも通り過ぎていく取り戻せない過去であることは、もう十分にわかっているのである。

「星が森に帰るように、自然に消えて」は、現状ではなく願望であるという解釈もありえる。つまり、今はそうではないが、そんな風に今の気持ちがおさまっていってほしいと願っているという心が歌われているというものだ。「自然に消えて」が、叙述なのか祈願なのかの違いだ。

このあたりは、聴き手に任されているところなのであろう。歌は、聴き手の数だけ解釈があっていいもののはずだ。

プリンセスプリンセスには良い恋の歌がたくさんある。バラードであればジュリアンという歌も人気があり良い歌であろう。

だがこの歌は、上に書いた解釈からもわかるように聴き手の自由度が高く、それはほとんどが、彼女がどのくらいその恋をあきらめているかという程度についての解釈が多様だからである。だから聞きようによっては身を切るような歌にも聞こえるし、そうでなくも聞こえる。

私はこの歌は鮮烈な歌だと思う。この歌詞は、富田京子というドラムのメンバーによって書かれたものに、ヴォーカルの奥田香が曲をつけた。実際の富田さんの経験によるものであり、肩の向こうに見えた景色がどこであるかもわかっているらしい。

身を切るような思いでこれを歌にしてしまい、そして名だたる名曲にしてしまうこと。それができることは、恐ろしいほどの意味で、彼女たちがほんもののアーティストだったことを示している。

私は、これほどのプロになれるかどうか、いまだに自信がないのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=kl1pYsecrlg

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鬼束ちひろ

私は鬼束ちひろの音楽と、最近はじけきってどうにかなってしまった独特の人柄がいずれも大好きなので、ここでもよく聞いているのだが、私の気が合う友人も好きだと聞いてかなり驚くとともに、大喜びしたヽ(´▽`)/

このブログでも、極めてマイナーなカテゴリーであり誰も読んでいないだろう音楽というカテゴリーで忘れたころに季節に一回くらい更新しているのだが、そこにはまだ鬼束の歌を扱っていない。一人の歌手・アーティストから何回も選ぶよりは広い範囲で勝手に独り言を紹介しようという考えもあって、一曲選びたいのだが好きな曲が多すぎて扱えないままでいる。

世に、音楽批評のブログなどたくさんあって、しかも人の胸を打つような名文が書いてあるのをみるにつけ、あぁ、自分にはこういう楽曲紹介はとてもでないが書けないなぁ。。。とがっかりすることもある(;ω;)

鬼束ちひろがやりたい音楽は、アメリカンポップスに近い。初期のWe can go、Little beat Rifleにみられるような楽曲である。しかし当初の月光の大ヒットから、鬼束ちひろはかなり神秘的かつ清楚なイメージのアーティストとして展開していくようになる。

これが後半の、正直もうどうにかなっちゃうんじゃないだろうかというような破綻活動休止にもつながるのだが、鬼束ちひろの恐るべきところは、あの悲嘆と諦念が見え隠れする薄暮の世界観を、見事に楽曲として表現してしまうところにある。彼女の内面にある本質的な狂気が、それを可能にしてしまっている。

今の、ニコニコ動画でみられるような、あるいは本に書いてあるような金魚の目玉を食べてしまうくらいいっちゃった独特の性格が本当の彼女だといわれる。そういわれるほうが、初期の楽曲から現在に至るまでの楽曲の世界が理解しやすい。むしろ、よくもまぁこれほどまでに商業ベースでも通用するほどの普遍性を持たせた世界を構築できたと、驚嘆せざるをえない。

それは、鬼束の楽曲に存在するポジティブな要因によるところも大きいだろう。初期の楽曲には、性的なものも含めた愛への希求がみられる。それは名曲として名高い流星群から、別離の覚悟をうかがわせる私とワルツをまで、随所にみられている。こういう、自分に極限まで引き寄せた歌の一方、Little beat rifleや自作ではないが守ってあげたいのような、他者への励ましや愛情の垣間見える歌を歌いこなすところが優れているのだ。

鬼束の楽曲は、詩から先に作られる。語感が重視されるため、歌詞の意味が簡単には頭に入ってはこない。Castle Imitationの「燃えさかる祈りの家に、残されたあの憂鬱を助けたりせずにすむ」という一節は、私が一生かけても思いつくことのないフレーズであるが、おそろしいほどのインパクトがある。一方で、聴き手が解釈する余地を残していながら、その解釈は最終的にはかなり普遍的なメッセージにたどり着くようにできている。

と。。。 まぁ勝手なことばかり書いているがブログというそもそもチラシの裏とほぼ同レベルな読み物だから、よしとしよう。(◎´∀`)ノ

結論としては「鬼束最高」と、ベネチアで意気投合した。

おかげで、研究に気持ちを切り替えるのが大変だ。。。

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